幸せの思想史

実存、自由、そして幸福:実存主義哲学における幸福論の諸相

Tags: 実存主義, 幸福論, 自由, キルケゴール, サルトル, カミュ

はじめに:実存主義における幸福概念の特異性

哲学史における幸福論は、古代ギリシャにおけるエウダイモニア論から、近代の功利主義や理性主義における快楽・満足の計算、あるいは最高善の追求に至るまで、多岐にわたる展開を見せてきました。しかし、19世紀後半から20世紀にかけて台頭した実存主義哲学において、幸福は伝統的な文脈とは異なる、特異な位相を帯びることになります。

実存主義の根本的なテーゼである「実存は本質に先立つ」という考え方は、人間が生まれながらにして固有の目的や本質を持つのではなく、自己の選択と行為によって自らを形成していく存在であると捉えます。この思想は、人間の自由と責任を極限まで強調する一方で、その自由がもたらす不安や孤独、無意味といった側面をも露わにしました。このような思想的背景の中で、実存主義者たちは、外部からの恩恵や客観的な基準によって測られる伝統的な意味での「幸福」とは異なる、内面的な自己のあり方や、困難な状況下での自己形成に関わる概念として幸福を捉え直すことになります。

本稿では、実存主義哲学における幸福概念が、自由、責任、不安といった主要な論点とどのように結びついているのかを考察します。特に、セーレン・キルケゴール、ジャン=ポール・サルトル、アルベール・カミュといった主要な実存主義者たちの思想を通して、その諸相を明らかにすることを目的とします。

自由と責任の重圧:実存主義における幸福の基盤

実存主義は、人間の徹底的な自由を強調します。我々は自身の状況や過去によって決定されるのではなく、常に自己を超え出る可能性、すなわち超越(transcendence)を秘めており、その自由な選択によって自己のあり方を決定していく存在であるとされます。この自由は、同時に逃れることのできない責任を伴います。自己の選択の結果だけでなく、その選択を通じて自己の本質を創造していくという根源的な責任です。

このような自由と責任の認識は、しばしば「不安(Angoisse)」として現れます。選択肢が無限に広がり、そのいかなる選択も絶対的な正しさを保証されない状況において、人間は自己の責任の重圧に直面し、不安を感じるのです。キルケゴールは、可能性に直面する際に生じるこの不安を、信仰へと至るための重要な契機と捉えました。サルトルは、自己のみならず全人類に対して責任を負うという自由の認識から来る根源的な不安について論じています。

実存主義において、幸福はこの自由と責任、そしてそれに伴う不安と切り離して考えることができません。それは、外部から与えられる平穏な状態ではなく、むしろ不安を引き受け、困難な選択を行い、その責任を負うプロセスそのものの中に見出される可能性があります。伝統的な幸福論がしばしば外部的な状況や内面的な平静を目指すのに対し、実存主義における幸福は、自己の内面に深く根差し、自己創造の営みと密接に関わっています。

主要な実存主義者たちの幸福観

セーレン・キルケゴール:信仰と自己の獲得

しばしば実存主義の父とされるキルケゴールは、人間の実存を美学的、倫理的、宗教的という三つの実存段階を通して考察しました。美学的段階は快楽や享楽に溺れる段階であり、真の自己や幸福からは遠いとされます。倫理的段階は義務や普遍的な法則に従う段階ですが、ここでも自己の独自性や根源的な自由は十分に実現されません。真の自己と幸福は、普遍性への忠誠と自己の固有性との間の矛盾に直面し、絶望を経て、究極的には信仰の跳躍によってのみ到達される宗教的段階において見出されるとキルケゴールは考えました。

キルケゴールにとって、幸福は自己の根源的な有限性と罪を認識し、神との関係性の中で「単独者」として真の自己を獲得するプロセスです。それは外部的な状況によるものではなく、内面的な実存的選択と信仰によって達成される、困難ではあるが唯一本物である自己充足の状態と言えるでしょう。この点については、『あれかこれか』や『不安の概念』といった著作が示唆に富みます。

ジャン=ポール・サルトル:アンガージュマンと自己創造

サルトルは「実存は本質に先立つ」というテーゼを明確に提示し、人間の完全な自由とその重圧としての責任を徹底的に論じました。人間は「自己自身を存在たらしめるもの」であり、自己欺瞞( mauvaise foi )に陥らずに自身の自由と責任を引き受けることが求められます。

サルトルにとって、幸福とは、自己の自由を最大限に行使し、世界や他者との関わりの中で自己を積極的に「アンガージュマン(関与)」させることによって見出されるものです。それは外部的な成功や快楽といった形をとるものではなく、自由な主体として自己を創造し、自己のプロジェクトを遂行することから生まれる、伝統的な意味での幸福とは異なる自己実現あるいは自己充足の感覚と言えます。しかし、このプロセスは常に不安や孤独を伴い、安易な慰めを許しません。自己の責任を放棄することなく、不条理な世界の中で意味を創造していくことが求められるのです。この思想は、『存在と無』や『実存主義はヒューマニズムか』といった著作で詳細に展開されています。

アルベール・カミュ:不条理への反抗

カミュは厳密な意味での実存主義者とされることには異論もありますが、不条理の哲学を通して人間の実存を深く考察しました。カミュにとって、人間は世界の合理性を求める存在であるにもかかわらず、世界は人間の問いかけに対して沈黙し、意味を与えません。この両者の断絶が「不条理( Absurde )」です。

カミュは、この不条理を直視し、それを受け入れつつも、決してそれに屈しない「反抗( Révolte )」の姿勢こそが、人間が尊厳を保ち、自己の生に価値を見出す道であると考えました。彼の代表作『シーシュポスの神話』において、罰として巨大な岩を山の頂上まで押し上げ、それが転がり落ちるのを繰り返すシーシュポスは、不条理な労働を課せられています。しかしカミュは、シーシュポスが岩とともに山を下りる瞬間、自身の運命を認識し、それを受け入れることによって、自らの苦役に勝利し、ある種の「幸福」を見出す可能性を示唆します。この幸福は、困難や無意味からの解放ではなく、むしろそれらを認識した上で、自己の意志によって運命を引き受けることの中に宿る、独自の強靭さや充足感と言えるでしょう。不条理の中での反抗と連帯も、カミュ哲学における重要なテーマであり、幸福と関連付けられ得ます。

実存主義における幸福概念の特徴と学術的論点

実存主義哲学における幸福概念は、伝統的な哲学におけるそれとは明確な差異を示します。その主要な特徴は以下の点に集約されます。

  1. 非目的論的・非外部的: 幸福は、特定の目的達成や外部的な状況(富、名声、健康など)によって定義されるものではありません。それは個人の内面的なあり方、すなわち実存そのものに関わる問題です。
  2. 自由と責任に根差す: 自己の自由な選択と、それに伴う無限の責任を引き受けるプロセスの中に幸福の可能性が見出されます。安易な外部への依存や決定論的な思考からの脱却が前提となります。
  3. 不安・苦悩との共存: 幸福は不安や苦悩といった負の感情を否定するものではなく、むしろそれらを自己の一部として引き受け、それらを通して自己を深めていく営みと結びついています。平静や無苦痛といった状態は、実存主義においては真の幸福とは見なされません。
  4. 主観性と自己創造: 客観的な基準によって普遍的に定義されるのではなく、個々人の実存における主観的な自己のあり方、自己を絶えず創造していくプロセスとして捉えられます。
  5. 伝統的徳や善との関係性の再考: 古代や中世哲学における美徳や善の追求が直接的に幸福に繋がるという考え方から離れ、実存的選択そのものが道徳的な価値を持ちうるという視点が強調されます。

これらの特徴は、哲学史における幸福論の研究において重要な論点を提起します。例えば、実存主義における幸福概念は、アリストテレス的なエウダイモニア(よく生きることとしての幸福)とどのような連続性・断絶性を持つのか、あるいはストア派のアパテイア(情念からの解放)やエピクロス派のアタラクシア(心の平静)といった概念とどのように対比されるのか、といった問いが立てられます。また、近代哲学における理性や情念の役割に関する議論(例えばデカルト、スピノザ、ヒューム)との関連性も考察されるべきでしょう。

さらに、現代における実存主義哲学の研究では、その幸福論が現代社会の個人のあり方、自己責任論、あるいは精神的な健康といったテーマとどのように結びつくのか、といった観点からの議論も進んでいます。例えば、ヴィクトール・フランクルのロゴセラピーにおける「意味への意志」の概念は、実存主義的な自己超越と幸福の関係性を示唆するものとして言及されることがあります。

結論:選択と責任の哲学としての幸福論

実存主義哲学における幸福概念は、伝統的な意味での安楽や平穏とは一線を画します。それは、人間が自己の根源的な自由と、それに伴う計り知れない責任に直面し、不安や苦悩といった避けられない感情を引き受けながら、主体的に自己を創造していく営みそのものの中に宿るものです。キルケゴールにおける信仰による自己の獲得、サルトルにおける自由な選択とアンガージュマン、カミュにおける不条理への反抗と運命の引き受けは、それぞれ異なるアプローチを取りながらも、自己の外部に幸福を求めるのではなく、内面的な実存のあり方、すなわち自己との誠実な対決と創造的な関与の中に真の充足を見出そうとする姿勢を共有しています。

実存主義の幸福論は、現代を生きる我々に対して、自己の生に対する責任を引き受け、困難な状況下でも自らの選択によって意味を創造していくことの重要性を示唆しています。それは時に重く、不安を伴う道ではありますが、外部の基準に依存しない、自己固有の「善き生」を築くための力強い指針となり得ます。学術的な視点からは、この実存主義的な幸福論が、哲学史における他の幸福論とどのように位置づけられ、また現代の倫理学や心理学においてどのような影響を与えているのかを継続的に探求することが、今後の重要な課題となるでしょう。