神と幸福:アウグスティヌスとトマス・アクィナスの幸福論の比較研究
はじめに:中世哲学における幸福論の位置づけ
古代ギリシャ哲学において、幸福(エウダイモニア)は人間の生における究極目的として探求されました。プラトンやアリストテレスは、理性や徳に基づく善き生の中にその実現を見出そうとしました。しかし、キリスト教の台頭に伴い、哲学は神学と深く結びつき、中世哲学における幸福論は新たな展開を迎えます。地上の生における幸福追求だけでなく、神との関係性や来世における永遠の幸福が重要なテーマとなります。本稿では、中世哲学を代表する思想家であるアウグスティヌスとトマス・アクィナスの幸福論に焦点を当て、それぞれの思想的特徴、共通点、相違点を比較検討し、その歴史的意義と学術的な論点について考察します。
アウグスティヌスの幸福論:神のうちに満たされる愛
アウグスティヌス(354-430年)は、古代末期から中世への過渡期に活躍した思想家であり、プラトン主義とキリスト教思想を融合させた独自の哲学を構築しました。彼の幸福論は、『告白』や『神の国』といった主要著作の中で展開されています。
アウグスティヌスにとって、人間の心は常に満たされない渇望を抱えており、この渇望を真に満たすことができるのは、究極の善であり存在である神のみであると考えます。「神のうちにのみ真の幸福がある」というのが彼の基本的な立場です。地上の富、名声、快楽といったものは、一時的な満足は与えるものの、決して心を永続的に満たすことはなく、むしろ人間を神から遠ざける誘惑となり得ます。
彼は、幸福を「愛するもの(善)と結合すること」と捉え、真の幸福とは、究極の善である神を愛し、神と結合することであると説きました。この神への愛は、単なる感情ではなく、意志による神への方向づけであり、「カリタス(愛)」と呼ばれます。地上の事物や人間を愛することも必要ですが、それらを神へと向かう愛の媒介として捉えることが重要です。
アウグスティヌスは、地上の生における幸福は不完全であり、真の完璧な幸福は、来世において神を直接認識し、永遠に神の栄光のうちに留まること(至福)にあると考えました。地上の生は、神への信仰と愛(カリタス)を通して、この究極の幸福へと向かうための準備期間と位置づけられます。この点において、彼の幸福論は終末論的、超越論的な色彩が強いと言えます。
トマス・アクィナスの幸福論:自然的目的論と至福直観
トマス・アクィナス(1225-1274年)は、中世盛期スコラ哲学の頂点を築いた思想家であり、アリストテレス哲学とキリスト教思想を統合しました。彼の幸福論は、『神学大全』の特に第二部において体系的に論じられています。
アクィナスは、アリストテレスの目的論的な人間観を受け継ぎつつ、それをキリスト教的に再構築しました。人間を含むすべての存在は、自身の本性に応じた固有の目的を持っており、その目的の達成のうちに幸福を見出すと考えます。人間の本性的な能力、特に理性と意志を最高度に活動させることによって、人間は最高の善へと向かうとされます。
彼は、人間の行為によって達成され得る地上の幸福(部分的な幸福)と、人間の自然的な能力を超えた究極の幸福(至福)を区別します。地上の幸福は、徳に基づく理性的な生や外的善によって得られるものであり、アリストテレスのエウダイモニア概念に近い側面を持ちます。しかし、アクィナスにとって、これは究極の幸福ではありません。
究極の幸福、すなわち至福は、創造主である神を直接に見るという「神の視福直観(beatific vision)」に他ならないと論じます。これは人間の自然的な能力だけでは到達し得ない、神の恩寵によってのみ可能となる状態です。この視福直観において、人間の知性は最高の対象である神と一致し、意志は最高の善である神を愛し、完全に満たされると考えられます。
アクィナスは、地上の生における徳の追求が、この究極の幸福へと人間を導くための準備となると考えました。特に神学的徳である信仰、希望、愛(アガペー/カリタス)は、人間を神へと方向づける上で不可欠であると説きます。彼の幸福論は、アリストテレス的な自然的目的論に基礎を置きつつ、その究極目的を神の視福直観に置くことで、哲学的幸福論を神学的幸福論へと昇華させたものと言えます。この点については、近年のトマス研究においても、アリストテレスからの連続性とキリスト教的神学による変容の度合いが重要な論点となっています。
アウグスティヌスとトマス・アクィナスの比較
アウグスティヌスとトマス・アクィナスの幸福論は、中世キリスト教思想という共通の基盤を持ちながらも、それぞれ異なる特徴を持っています。
共通点:
- 究極の幸福は神にある: 両者ともに、人間の究極的な幸福は、被造物ではなく、創造主である神との関係性のうちにあると考えます。地上のいかなるものも、人間の心を満たすことはできないという認識を共有しています。
- 愛(カリタス)の重要性: どちらも、神への愛(カリタス)が幸福へと至る上で不可欠な要素であると強調します。
- 地上の幸福の限界: 地上の生で達成される幸福は、一時的、不完全なものであるという認識を持っています。
相違点:
- 哲学的基盤: アウグスティヌスがプラトン主義(特にネオプラトニズム)に強い影響を受けているのに対し、アクィナスはアリストテレス哲学を主要な枠組みとしています。この違いは、幸福へのアプローチに影響を与えています。アウグスティヌスは内省的、超越論的な傾向が強く、神への回心や恩寵を強調する一方、アクィナスは目的論的な人間観に基づき、自然的な徳や能力の役割も重視します。
- 地上の幸福の位置づけ: アウグスティヌスは地上のものを比較的否定的に捉えがちであり、真の幸福は地上の外に求められる側面が強いです。対してアクィナスは、アリストテレス的現実主義に基づき、地上の生における徳に基づく善き生(部分的な幸福)にも一定の価値を認め、それが究極の幸福への準備段階となると考えます。
- 幸福の到達方法: アウグスティヌスにおいては、信仰と恩寵による神への回心、愛(カリタス)による神との結合が強調されます。アクィナスにおいては、理性の活動と徳の習得による自然的な準備に加え、恩寵による「神の視福直観」という具体的な認識体験が幸福の究極形態として明確に位置づけられています。アクィナスにおける視福直観の概念は、アウグスティヌスにおいてはそこまで明示的に展開されていないと考えられます。
歴史的意義と学術的論点
アウグスティヌスとトマス・アクィナスの幸福論は、中世哲学における幸福の概念を、古代哲学の枠組みから神学的な次元へと拡張・深化させた点で重要な意義を持ちます。彼らの思想は、その後のスコラ哲学、宗教改革、さらには近代哲学の幸福論にも間接的、直接的に影響を与えました。例えば、スピノザの「神即自然」における幸福論や、ライプニッツの予定調和説における最善世界と幸福の関係など、形而上学的な幸福論の潮流は、中世哲学における神と幸福の関係性の探求と無縁ではありません。
学術的には、両者の幸福論の解釈には多様な論点が存在します。アウグスティヌスの思想におけるプラトン主義とキリスト教の融合の度合い、あるいはトマス・アクィナスにおけるアリストテレス哲学の受容と変容の正確な性質などは、現在でも活発な研究テーマです。特に、アクィナスが地上の幸福にどの程度の価値を認めたのか、そして彼の幸福論全体における哲学的要素と神学的要素の整合性については、様々な解釈が提出されています。これらの論点については、近年の個別の研究論文や専門書が詳しい情報を提供しています。
結論
中世哲学において、アウグスティヌスとトマス・アクィナスは、それぞれ異なる哲学的背景から幸福論を展開しました。アウグスティヌスは神を愛し、神のうちに満たされる超越的な幸福を強調し、地上の幸福には懐疑的な姿勢を見せました。一方、トマス・アクィナスはアリストテレス哲学を取り入れ、自然的な目的論に基づく地上の幸福に一定の価値を認めつつも、究極の幸福を神の視福直観に求めました。両者の思想は、神を人間の究極目的とする点で共通しますが、その哲学的基盤や幸福への道筋において重要な相違が見られます。彼らの幸福論は、神学と哲学が密接に結びついた中世独自の思想的営みを反映しており、その後の西洋哲学における幸福論の展開を理解する上で不可欠な位置を占めていると言えます。