セーレン・キルケゴールにおける幸福の探求:実存的選択と信仰の跳躍
はじめに:実存主義哲学における幸福の位置づけ
哲学史において、幸福(古代ギリシャ語: εὐδαιμονία, ラテン語: felicitas, beatitudo, ドイツ語: Glückseligkeit)は古来より主要な探求テーマの一つでした。アリストテレスに始まり、ストア派やエピクロス派、中世のスコラ哲学、近代哲学に至るまで、多くの哲学者が幸福の本質、達成方法、そして人間の究極目的としてのその位置づけについて論じてきました。しかし、19世紀に入り、セーレン・キルケゴール(Søren Kierkegaard, 1813-1855)が登場すると、この伝統的な幸福論に対する新たな、そして根源的な問い直しがなされることになります。
キルケゴールの哲学は、「実存」という概念を核とし、個々の主体の内的な経験、選択、責任に焦点を当てます。これは、体系的な理性や普遍的な法則によって幸福を規定しようとする従来の哲学とは一線を画するものです。彼の思想において、幸福はもはや外的な条件や普遍的な理性に依存するものではなく、個々の主体の内的な状態、特に神との関係性において追求されるものとなります。本稿では、キルケゴールの主要な著作を通じて、彼の幸福論がどのように展開されるのかを、特に「実存の三段階論」、「絶望」、「実存的選択」、「信仰の跳躍」といった概念との関連において学術的に考察します。
伝統的な幸福論への批判と「内面性」の重視
キルケゴールは、ヘーゲルに代表される同時代の観念論哲学が、個々の実存する人間を見失い、抽象的な「精神」や「普遍」の体系に解消してしまっていると批判しました。このような普遍主義的な視点から幸福を論じることは、個々の人間が直面する具体的な苦悩や選択、そして主体的な関与を見落とすと考えたのです。
また、彼は古代ギリシャ哲学、特にストア派やエピクロス派の幸福論に対しても、批判的な距離を取りました。ストア派の不動心(ἀπάθεια)やエピクロス派の快楽(ἡδονή)を追求するアプローチは、キルケゴールにとって、真の「内面性」や「主体性」に基づかない、ある種の回避や表面的な状態に過ぎないと映ったようです。彼の哲学における幸福は、外的な状況に左右されない心の平静といった状態に留まらず、主体が自己自身として、そして神の前においてどのように立ち現れるかに深く関わっています。
キルケゴールは、人間の実存は単なる理性的存在である以上に、情熱、苦悩、不安を抱えた存在であると捉えました。真の幸福は、このような人間の根源的な状態を直視し、主体的に引き受けることから生まれると考えたのです。この「内面性」の重視こそが、彼の幸福論の出発点と言えます。この点については、『哲学的断片への結びとしての非学術的最終追記』における「主観性は真理である」という主張にその核心が見出されます。(この点については、キルケゴールの『非学術的最終追記』に関する近年の研究が詳しいです)。
実存の段階論と幸福の位相:審美的、倫理的、宗教的段階
キルケゴールの著作『あれか、これか』などで提示される実存の段階論は、人間が自己自身として存在していく過程を描写するものです。各段階において、幸福の捉え方、そしてその追求の仕方が大きく異なります。
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審美的段階(Aesthetic Stage): 快楽や瞬間的な喜び、多様な経験を追求する段階です。審美的な人間は、自己を外界の出来事や感情の波に委ね、統一された自己を形成しません。この段階における「幸福」は、刹那的な満足や興奮であり、永遠性や内的な安定に欠けます。退屈や空虚感に直面しやすく、究極的には「絶望」に至る可能性を秘めています。
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倫理的段階(Ethical Stage): 普遍的な規範や義務に従い、責任ある選択を行う段階です。倫理的な人間は、結婚や職業といった社会的役割を引き受け、自己を普遍的なものの中に位置づけます。この段階における「幸福」は、義務の遂行や良心の平静といった形で現れます。しかし、倫理的な普遍性が個々の具体的な状況や内的な葛藤に対応できない場合、ここでも限界に直面し、「絶望」が生じうるのです。
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宗教的段階(Religious Stage): 倫理的な普遍性を超え、個々の主体が単独で神と向き合う段階です。「信仰の跳躍」によってこの段階に至った人間は、神の前における自己の絶対的な責任と可能性を自覚します。この段階における「幸福」は、単なる快楽や義務の遂行によるものではなく、神との関係性の中で見出される「祝福(Beatitudo)」と表現されます。これは、外的な状況や他者からの評価に依存しない、内的な平和と深い満足感に根差しています。
キルケゴールにとって、真の幸福、すなわち祝福は、単に段階を移行することで自動的に得られるものではなく、各段階における「絶望」の経験と、主体的な「選択」、そして究極的には「信仰の跳躍」という内的な運動によってのみ到達可能なものなのです。絶望は、自己が自己自身であり得ない状態であり、この絶望を自覚することこそが、次の段階への移行を促す契機となります。(絶望については、『死に至る病』における詳細な分析が不可欠です)。
実存的選択と信仰の跳躍:自己形成と幸福
キルケゴール哲学において、人間の実存は絶え間ない選択の過程です。特に倫理的段階への移行は、「あれか、これか」という根源的な選択によって行われます。ここで重要なのは、選択の内容以上に、主体が自己自身の責任において選択を行うという行為そのものです。この実存的選択を通じて、人間は自己を形成し、単なる可能性の束から現実の自己へと立ち現れるのです。
しかし、倫理的段階の選択でさえ、まだ普遍的な規範に縛られています。宗教的段階への移行は、よりラディカルな「信仰の跳躍」を要求します。これは、理性によっては理解できない、あるいは理性と矛盾するように見えるものを、主体が全面的に信頼し、自己自身を委ねる行為です。アブラハムがイサクを犠牲にしようとした物語(『恐れとおののき』で分析されています)は、この信仰の跳躍の典型として挙げられます。
この信仰の跳躍こそが、キルケゴールにおける真の幸福、祝福へと繋がるとされます。祝福は、理性的な思弁や倫理的な功績によって得られるものではなく、神との人格的な関係性の中で、主体が自己の全存在をかけて獲得する内的な状態です。それは、世界の合理性や自身の行為の結果に一喜一憂するのではなく、神の摂理に対する絶対的な信頼に基づく平安であり、自己自身であることの深い充足感です。これは伝統的な理性主義的な幸福概念とは大きく異なり、むしろ「神の前における単独者」としての自己の確立に根差した幸福と言えるでしょう。
結論:キルケゴール哲学における幸福論の特異性
セーレン・キルケゴールの幸福論は、西洋哲学の伝統的な幸福論とは異質な光を放っています。彼は、外的な快楽や普遍的な理性による到達目標としての幸福ではなく、個々の主体の内的な苦悩、選択、そして究極的には神との関係性の中で見出される「祝福」としての幸福を提示しました。
彼の哲学において、絶望は回避すべき状態であると同時に、自己を深く理解し、新たな段階へと進むための重要な契機となります。実存的選択は自己形成のプロセスであり、そして信仰の跳躍は、理性や普遍を超えた次元での真の自己実現と祝福への道を開くものです。
キルケゴールの思想は、その後の実存主義哲学に多大な影響を与えました。彼の幸福論は、現代社会においても、外的な成功や物質的な豊かさに依拠しない、内面的な充足や自己のあり方を問い直す上で、示唆に富む視点を提供していると言えます。彼の哲学は、幸福を単なる「状態」として捉えるのではなく、自己が自己自身として存在していく動的な「プロセス」として理解することを促しているのです。彼の主著群、特に『あれか、これか』、『恐れとおののき』、『死に至る病』、そして『哲学的断片への結びとしての非学術的最終追記』は、このユニークな幸福論を深く理解するための不可欠な文献となります。近年のキルケゴール研究においては、彼の初期著作における「喜び」の概念と後期著作における「祝福」の概念の連続性や差異についても活発な議論が行われています。